1920年代や1930年代に洋装が多かったとか和装が多かったとか、日本の歴史研究ではこんな詰まらなく証明できない議論が数十年間にわたって続いてきました。
なかでも、かなり酷い研究がペネロピ・フランクス論文です。この論文がとりあげた1933年の着物写真を紹介して論文を批判します。
ひろく歴史研究で写真を安易に使うと、かなり恣意的で説得性に欠けた研究になってしまいます。この典型がフランクス論文です。
ペネロピ・フランクス「着物ファッション―消費者と戦前期日本における繊維産業の成長―」
ペネロピ・フランクス論文「着物ファッション―消費者と戦前期日本における繊維産業の成長―」に使われている写真を下に掲げます。
この論文の収載元はこちら。
なお、国立民族学博物館の大丸弘研究室と大阪樟蔭女子大学衣料情報室の協力からはじまったMCDプロジェクトによる「近代日本の身装文化」でも掲載されている写真です。
この着物の写真を参照したフランクス論文の論点は次の3点に絞られます。
- 1920年代・1930年代になっても、まだまだ着物を着ている人が多かった。
- だから、西洋中心史観やマルクス主義のいう、近代化や西洋化は大したことがなかった。
- むしろ、着物(銘仙)を作っていたのは伊勢崎で、供給不足に陥ったときは桐生と足利に委託生産をさせたのだから分散型生産組織であり、西洋中心史観やマルクス主義の強調した工場制(集中型生産組織)ではなかった。
1つめの論点に関しては、よく雑に使われる今和次郎の街頭調査をフランクスも触れています。
2枚の着物写真からペネロピ・フランクス論文を批判
1924年(東京日本橋近辺)の着物の写真
冒頭に提示した写真よりも9年前、1924年の東京日本橋ちかくで写された写真を提示することで、この論点を否定できます。
洋服女性が和傘をさし、和服女性がパラソルをさしています。
冒頭の写真から1930年代でも和服(着物)を着ている人が多かったとみなすフランクスにしたがえば、この2枚目の写真からは、西洋化や近代化の比率はまさに50%となります。
撮影を意識して交換したのか、洋装女性が和傘、和装女性が洋傘(パラソル)を持っています。
二人の背丈は似ていて、洋装女性のシャツ下端と和装女性の端折り位置がほぼ一致していることが確認できます。
二人とも西洋倫理の黄金比を無意識につかっています。近代化された着装です。
1933年の着物の写真をみて思うこと
みなさんは冒頭の写真、1933年(場所不詳)に写された写真を見て、着物(和服)が多かったと納得し、近代化や西洋化を過小評価することができますか。
私はこの着物の写真を見て、むしろ近代化が進んでいたと感じます。着物という漠然としたイメージに思考を奪われてはいけません。
この写真はファッションステージやレジャースポットとして写されたものです。普段着の着物すがたではありません。
お太鼓結びでセッティングされた後姿
冒頭の写真は後姿を写しています。
6人の女性が身に着けている帯はお太鼓結び。このような着物は帯柄を見せるのが美しさをもっとも強く表現する方法です。
太鼓結びは語義矛盾ですね。結ぶ仕様がない取り付け器具による帯ですから、1人で取り付け可能。
もちろん、このことが和装着用率を下げるわけではありませんが、スリムな西洋倫理を反映していることは間違いありません。
ショーウィンドーのある街路はファッションステージだったでしょう。このような場所で被写体が後姿を撮影されることに慣れはじめていました。
ちなみに、1920年頃までは正面で写されることを好む女性が多かったようです。最近はなかなか正面から写させてくれないと、1930年頃に写真家の影山光洋は苦労話を漏らしていました。
ショートヘアの大流行
ショートヘアで髪型もスリムに規格化されています。1930年代、中国でもショートヘアが旗袍と合わせられました。世界的にみてもショートヘアが大流行していました。
実用性からいえば、市電に乗ったときに邪魔にならないようにコンパクトにしています。
舗装されたアスファルトとガラス張りのショーウィンドー
- 6人は舗装されたアスファルト上を歩いています。土の上ではありません。
- 6人中4人がガラス張りのショーウィンドーを見ています。この大きさからして百貨店でしょう。
着物着用者が6人いる写真を提示しても着物着用の根づよさを述べたことにはなりません。
フランクスは20世紀和服が洋服になったことを見逃しています。
また、写真の大部分を覆っている近代建築には気づかなかったようです。お太鼓帯に目を奪われたのかもしれません。
なぜ6人の女性は着物を着ているのか?
それでは、なぜ6人の女性は着物を着ているのでしょうか。
20代前半と思われる6人の女性は女子学生かOLのどちらかでしょう。
日常生活として通学や仕事で彼女たちは洋服を着ていると想像します。
「ファッションステージは今和次郎がみた銀座から鎌倉へ」に述べたように、仕事用の衣服に洋服も和服も多くの人が着ていました。
他方、この2枚の写真でははっきりしませんが、1920年代・1930年代の女性の姿勢は前近代を引きずっています(とくに猫背)。日本建築は天井が低いので猫背を極端に促進したという本質的な問題提起もありますが、ここでは深入りしません。
つまり、ゼロ歳代や10歳代に着慣れた和服じゃないので、当時の日本人が錯覚してしまった洋服観、つまり、それなりの姿勢のよさを求める洋服を着つづけることで「感覚疲労」が発生したと考えられます。
ですから、休みの日に繁華街へ出かけるとき、着物でショッピングするプランが成り立ちます。
分散型生産組織と集中型生産組織
フランクス論文の3つめの論点はこうです。
分散型生産組織(問屋制)だからといって集中型生産組織(工場制)じゃなかったとはかぎりません。
職工が通勤する集中型生産組織が、別の生産組織から製品を受注すれば、分散型生産組織になります。つまり、分散型生産組織を構成する主体同士のなかには工場もありました。
フランクスって経済史家だったと思ったのですが、ここを踏み間違えたので門外漢なのでしょうか…。
結論:近代化や西洋化の過小評価は無理
この記事では2つの写真をもとに、近代化や西洋化を過小評価する論点を批判しました。
確かに、1970年代まで普段着として着物を着る女性は多かったです。だからといって1920年年代や1930年代に洋服を着ていた女性が少なかったわけではありません。
洋服化・近代化・西洋化は否定できるものじゃありません。
この記事の一部は、大丸弘・高橋晴子の共著による『日本人のすがたと暮らし』のうち、「帯―お太鼓の周辺」をはじめとする「素材と装い」に依拠して書きました。
この本はまさに痒い所に手が届く名著です。
みなさんに強くお勧めいたします。
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